人はなぜ学ぶのか?
人生で一度は考えてしまうことの一つですよね。
私も、学生時代や社会人になってからも勉強する上で、この理由を良く考えていましたが、なかなかしっくりする答えは見つかりませんでした。
そんな中、かの有名な松下村塾を立ち上げた長州藩士の吉田松陰は、例え牢獄の中でも、死刑が決まった後でも、学ぶことを止めなかったのを知りました。
そしてその理由を知ったときに、人はなぜ学ぶのかということの本質が分かったような気がしました。
今回は、そんな吉田松陰の考えを元に、人が学ぶ理由について考えてみたいと思います!
吉田松陰が牢獄でも学び続けた理由
まずは、吉田松陰が牢獄の中でも勉強した理由についてお伝えします。
吉田松陰自身が獄中で記した「講孟余話」に、なぜ松陰が牢獄でも学び続けたのかが書かれていますので、まずは松陰の考えを見ていきましょう。
以下、「講孟余話」に書かれている松陰の考えをご紹介します。
まずは皆さんと一緒に牢獄の中で学ぶ意味について考えてみましょう。
世間的な考えでは、死ぬまで牢獄に入れられて二度と社会に出られないのであれば、一生懸命勉強してもそれは何の役にも立たず全く無意味だということになるかもしれません。
しかし、これは損得にしか目線がいっていない短絡的な考えのもので、本来の学びとはそうではないのです。
損得勘定を抜きにして、人の心は生まれながらにして学びたいという気持ちを持っています。
人に生まれて人としての正しい生き方を知らない、臣として子として武士としてそのあり方の正しい道を知らない。
これは最大の恥だと考えます。
もしこれを恥ずかしいと思う気持ちがあるのであれば、本を読み、道を学ぶ他ありません。
そして少しでもその道を知ることができれば、それは心からの喜びではないでしょうか?
孔子の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というのはまさにこのことなのです。
これが、吉田松陰が牢獄でも学び続けてた理由です。
社会に役に立つかどうかが学ぶ理由ではなく、人が本来持っている学びたいという心に従って、人としての正しい道を知ることが学ぶ最大の理由だったのですね。
この考え方は、非常に大切なことなのではないかと思いました。
損得本位の考え方での学び
今までの自分の勉強の仕方を振り返ってみると、まさにこの損得勘定の考え方での勉強だったと思います。
今まで自分が何の為に勉強をしてきたか、箇条書きにしてみます。
◆学生時代
- 親に喜んでもらうため
- テストで良い点数を取るため
- 受験勉強のため
- 大学の単位のため
- 将来の仕事のため
◆社会人
- 仕事で必要な知識を習得するため
- 社会の役に立つため
- 資格を取るため
- 出世のため
このようなことを目的で勉強をしてきました。
もし勉強の目的がこれらであれば、果たして私は一生外には出られない牢獄に入れられたとしても勉強できたでしょうか?
できないですよね。
いくら勉強しても、それを生かせる仕事もなければ、社会のお役に立つこともできません。
吉田松陰から見れば、このような学び方はただ損得勘定を考えているだけだと言っているのですね。
この言葉は、胸に響きました。
道を知るための勉強
では、道を知るための勉強とは何でしょうか?
人生や家族、仕事などから考えると、下記のような道が思い浮かびます。
人として、夫として、妻として、親として、子として、社会人としてetc
これらの正しい道を知らないことを恥じる気持ち、これらの正しい道を少しでも知ることを喜ぶ気持ち。
その為に学ぶのが、吉田松陰の考える人間の本来持って生まれた天性に沿った学び方だったのですね。
私もこれからは、このような気持ちであらゆる道を学んで行けたらと思います。
まとめ
以上が、吉田松陰の考えを元にした、人が学ぶ理由についてです。まとめると、下記の通りです。
- 何かの役に立たなければ学ぶ意味が無いというのは、損得本意での考え方
- 人が生まれながらにして持っている、学びたいという気持ちを尊重する
- 人として生まれて、人の生きる正しい道を知ることこそが学ぶ理由
私自身、本当に今まで損得本意での学び方しかしていませんでした。このような考え方を知ると、お恥ずかしい限りです。
これからは気持ちを入れ替えて、自分の持っている学びたいという気持ちに正直に、人の道を知るために、学び続けて行けたらと思います(^^)
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